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第28代熊野別当 尋快:紀伊続風土記(現代語訳)


第28別当 尋快

行快の嫡男。治山(欠字)。男子4人、女子3人。ただし快実法印と尋快法印の権官相論のため3ヶ年中絶。権官はおよそ(欠字)次第である。そうしている間に承久3年京が関東と騒乱を起こしたので、快実が(欠字)京方に参じ、その罪科により快実は首を斬られた。尋快は同罪をなしたが、しばらく逐電させられた。世間は安堵し(欠字)関東に参じ、赦免を蒙った後に別当に補された。(欠字)面目余身為希例也。

 

 

快実は25代琳快の条下に新宮法印信快とあるこれである。『承久記』には「今度の御謀反に山々の僧法師どもをも召された。まず熊野法師では田辺の法印(考えるに第25代琳快の条に見える田辺法印快実がこれである)十万法橋王法橋万劫禅師が参った」とある。

『東鑑』に承久の乱を記して「6月14日宇治合戦で敵を討った人々の中に松田小次郎(1人は熊野法印の親者)、沼田小太郎(1人手討、熊野法印の子)、河平次郎の手(熊野法印)、波多野中務次郎(1人熊野法印、長輻輪太刀)、内記左近将藍(2人熊野法印郎等)」と見える。

『承久記』にはまた「熊野法印天野四郎左衛門を初めとして生捕りの輩はことごとく六条河原に引き出され首をはねられたのは悲しいことだ」とある。熊野法印はすなわち田辺法師快実である。『東鑑』に小松と号する由を註してある。この人は湛増の後に田辺にいた人であろう。『尊卑文脈』に「湛増の子湛全は承久為京方一方賜大将軍依致於関東において誅された」とあるのは快実の誤りであろう。そうであるなら快実は湛増の子であろう。

『北条九代記』に「田辺法印はその子十王禅師を討たせながら熊野へ逃げ帰り生け捕られ首を刎ねられた」とある。『東鑑』に見える沼田小太郎に生け捕られた熊野法印の子とあるのはこれらであろう。本文に「快実はすなわち首を斬られた」とあるのはこのことである。また『東鑑』に「鳥居禅尼の子、法橋行忠が承久の乱で京方で敗北の後、佐野荘に居住したことが記してある。参河国碧海郡渡村長島仁左衛門の家記に承久乱後は行忠は参河国に遁れるともある。

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牟婁郡:紀伊続風土記