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富田荘:紀伊続風土記(現代語訳)


富田荘 とんだ 全14ヶ村

富田荘全14ヶ村(古は12ヶ村であったが、後に西北に堅田村を開き、当南に朝来帰村を開いて、14ヶ村となる)。この荘は田辺荘新庄村瀬戸村の2村の東にあって、東南は安宅荘と界し、東北は岩田郷と界を接し、西南の間は海に面して、富田川がその中央を流れ、艮(※東北※)から坤(※西南※)に向かって中村に至って海に入る。

土地が広くて肥沃な田が多く、舟運の便がある。富田の称はまことに嘘ではない。その広さを計ると、南北3里余り、東西2里半余り。この地は古の岡田郷の内であろう。しかしながら岡田の称その出る所を知らず。岡田はあるいは富田の誤りで字の形が近いので伝写を誤ったのであろうか(考えるに、『和名抄』に載せる所、当郡の郷名その地みな考えることができるが、ただ岡田郷の地は詳らかでない。今、一郡に郷名を配当すると岡田郷は間違いなくこの辺のことであろう。推察すると岡田は文字の誤りで富田であろうと思われる)

この荘は中古熊野権現の社領となったために王子権現を祭って1荘12ヶ村の産土神とする。古くは荘は2つに分かれて、川の東南にあるのを南荘といい(保呂内ノ川社川・十九淵・芝・高瀬がこれにある)、川の西北にあるのを北荘という(吉田高井溝端才野がこれにある)。南荘は内川修理大夫という者がこれを掌り、北荘は吉田某がこれを掌ったという(内川の家は今は断絶した。吉田の家は衰えたといえども今なおその枝派と称する者がいる)。

富田川
源は栗栖川荘の兵生村の安堵ガ峰より発し栗栖川荘中の諸谷の水を合わせて岩田郷に入って岩田川といい、それから当荘に入って富田川と称する。中村に至って海に入る。舟運の便は栗栖川荘真砂村まで通じる。海口から全9里余りである。

富田坂
高瀬村から南に向かって登ること1里ばかり。これを降りれば安宅荘安居村に至る。坂道は全2里28町という。坂道は石が高く道が険しくて、大辺路街道の内の坂道では最も険しく大きな坂道である。
  熊野古道の歩き方

富田荘14ヶ村

 


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牟婁郡:紀伊続風土記