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田辺荘:紀伊続風土記(現代語訳)


田辺荘 たなべ 全8ヶ村及び田辺城下

田辺城水門

田辺荘全城下1村数8。その地は芳養荘の東南にあって北は秋津三栖の両荘に接し、東南は岩田郷富田荘と界して正西は海に面して一大湾曲をなし、その姿はほとんど弓の満を持するがごとし。その湾中の海岸の委曲に至っては数えることができない。荘中に通してこれを計ると、湾の西の端芳養荘の界から湾の南の端鉛山村に至った総計の長さは5里ばかり。そしてその海上の広さは遠い所は1里、近い所は20町ばかり。

ただ伊作田村1村が北にあって芳養秋津の両荘に突き入るが、南北長さ50町、東西広さ15町。田辺の城下が湊村の半分を占めて諸士の邸宅、商売の市□が軒を連ね甍を並べ、民物富庶にして貨物が寄り集まる。じつに海南の一都会ということができる。

この荘の海岸はみな砂土でその地は平坦である。みな古の海中あるいは遠干潟の地である。中でも湊村城下の地はみな古の海中で、今の秋津荘万呂荘と接する地は大抵、古、秋津川の海口で、波打ち際の地であったろう。ゆえに往古熊野往還の街道は芳養荘林村より伊作田村の内の荒光の山を越えて下秋津村に至るのを古道であるという。昔しばしば御幸があった時代はしだいに退いて大方は今の形に近いけれども、なお湊村の地などは今よりは狭小であったのだろう。新庄の内にも山際に古道という所がある。今の道よりは1、2町離れている。今の道は古は海潮の上がった地であることを知るべきである。

田辺は国卿安藤氏居城の地である。安藤氏が治める所は他の士大夫の知行所と異なってその土地人民山林の類みな属す。よってこれを田辺領と称す。日高郡の岩代・切部・南部の3荘、牟婁郡では田辺を初めとして芳養秋津万呂三栖富田・岩田・栗栖川の8荘を田辺領とする。以下各荘で一々いわない。

田辺荘8ヶ村及び田辺城下

 


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牟婁郡:紀伊続風土記