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第31代熊野別当 正湛:紀伊続風土記(現代語訳)


第31別当 正湛

定湛の子。後宇多院弘安5壬生年12月補任。

 

 

那智尊勝院に法印正湛の文書を納める。この人であろう。

 

 

 

以上が『別当次第記』の全文である。この後もなお連綿と続いたのであろうけれど、この記に書き続けなかったのであろう。

『太平記』元弘元年大塔宮熊野落ちの条に戸野兵衛の言葉に「三山の別当定遍僧都は無二の武家方」とある。建武5年の尊氏の文書に「紀伊国富安荘高家荘稲南村切目荘櫟原荘事為兵粮料所所預置也可支配山人等為殊功者可令抽賞之状如件熊野山新宮別当御坊」とある。無二の武家方とあるのは符合する。これは定遍のことであろう。また同書に定遍が恩賞を約束して八荘司どもの心を誘ったことを載せる(熊野八荘司の名は初めてここで見える)。

また建武2年2月尊氏将軍都落ちの条に「このとき熊野山の別当四郎法橋道有がいまだ薬師丸といって童体でお伴をした」とある(元弘元年よりは5年の後である)。

また暦応3年義助預州下向の条で田辺の宿に逗留し渡海の船をより分けなさる条に「熊野の新宮別当湛誉・湯浅入道定仏・山本判官・東四郎・西四郎以下の以下の熊野人どもが馬物具弓矢太刀長刀平粮等に至るまで我劣らじと奉った」とある(建武2年よりは5年の後である)。

以上の3人の中で、定遍は北条方で、後に尊氏方に属し、道有は足利方、湛誉は官軍方に属した。また同書に後醍醐天皇崩御の条に「官軍に志ある輩の中に熊野には田辺別当」と見える。また紀伊国軍の条にも「田辺別当(その名は欠く)」とある。南北朝より以下、別当補任のことは絶えたのであろう。

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牟婁郡:紀伊続風土記