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牟婁郡:紀伊続風土記(現代語訳)


郡中の荘郷名

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牟婁郡 総論

牟婁(むろ)は日高郡の東南に続いて、その地の広さは伊都・那賀・名草・海部・在田・日高の6郡を合わせてもその大きさに比べることができない。長短相補ってその広さをいえば、東西35里南北12、3里ばかりであろう。

6郡の地はたいてい大和国の西にある。東郡は大和国の南から東を取り巻き、吉野郡を包んで、北の方は伊勢国と境を接する。東南は大 に向かってその果てを知る者はない。万国図を見ると本国より東南隅の八丈島を除いてその外に国はない。じつに洋溟が迫まる地ということができる。

この地、上古は熊野という。今に至ってもこれを通称とする。

牟婁の名は初めて斉明紀及び万葉集に出てて往古はわずかに郡の西辺り、今の田辺近傍の称で、後の牟婁郡の地はすなわちその地である(そのことは田辺荘の論で詳らかにしている)。その名義は舘(ムロツミ)の意味で海津官舎があることから起こった称であろうか(播磨室津・周防室積なども同じ。また尾張師崎(もろざき)をむろ崎ともいう。これもみな海辺なので同じいみだあろう)。または温暖の意味でその地の暖かなことから起こった称であろう(『大和物語』に「きの国のむろの郡に行く人は風の寒さも思ひ知られし」その返しに「紀の国のむろの郡に行きながら君とふすまの無きぞかなしき」)。

その地を除く外はことごとく熊野の地で(だいたい今の富田坂より東の方)、その土地は広大で1邦域をなしている。熊は隈で古茂累(コモル)の意味で山川幽深で樹木鬱蒼としていることをもって名づけたのだ(『古事記』に神武帝が熊野村に とき、大熊が出たことを載せている。熊野の名はこれから起こったのか。しかしながら本国と出雲とともに熊野の名があって神代には両国は木の多い国で、熊野の名も同じ意味であろうから古茂累の意味の方を取った)。
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その地は古今の事蹟を考えると、神代巻(かみよのまき)に伊弉冉尊を紀伊国熊野有馬村に葬り奉ったことが見えているのを初めとして(そのことは有馬荘で詳らかにしている)、また少彦名命が行って熊野の御崎に至ったとある。
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また神武紀に遂に佐野を越えて熊野神邑に到り(略)

 


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