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第20代熊野別当 範智:紀伊続風土記(現代語訳)


第20別当 範智

長範の三男。法印に叙す。男子1人、女子1人。61歳で入滅。治山8年。承安4年甲午年補任。

また南法眼行命が平家の御時に補したが、御山はこれを用いなかったので、御山に詣でず、遂に平家に付いて関東に生け捕られ、関東が流罪とする。しかしながら召還して京で死去した。

 

 

『本朝世紀』の仁平3年3月の条に「新宮法橋範智(権別当、行範の譲)」とある。

『百練抄』に「治承4年冬10月6日乙酉、熊野前別当湛増が荘園を焼いたので、別当範智に命じてこれを執る」とあるのは、湛増は範智より以前に別当である 範智を先としたのは「熊野別当代々次第」と相違する(湛増の条を合わせて考えるべし)。

法印行命は『玉海』の養和元年10月11日の条に「伝え聞くことには、熊野の行命法眼(南法眼と称す。熊野輩の中でただ1人官軍に志があるのだ)は上洛を欲したので散々に討ち落とされた。わずかに身命を存したが、子息郎従は1人残らず討ち取られた。その身を山中に隠したが、安否はなお不定ということだ。これは元志賀在庁の者の所為ということだ。今は、熊野方は一切異途なく一統したという」とある。

『東鑑』に壇ノ浦の生け捕りの名を記したところに法眼行命(註に熊野別当)と見えて、同書の捕虜を流罪にするところに前法眼行命(註に熊野別当、常陸国)と見える(このことはまた『玉海』にも見える)。

文治5年に召還されることがあってこの文に合っている。また同書の文治5年9月18日の条に「泰衡一方後見熊野別当上総介義兼召進之」とあるのも行命であろうか。

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牟婁郡:紀伊続風土記