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第15代熊野別当 長快:紀伊続風土記(現代語訳)


第15別当 長快

承保2年5月19日補任。永久4年10月11日、本院御参詣のとき、法橋に叙す。保安3年頃、法印に叙す。同年12月7日滅した。快真の嫡子である。男子6人、女子3人。治山38年。

 

 

『中右記』に「寛治4年4月26日、上皇はこのとき熊野より御鳥羽殿に還り、今日、熊野別当長快(欠字)昧法橋に叙す。上皇御参詣の賞に依ってである」。

また『初例抄』に「熊野僧綱例長快が寛治4年2月25日、法橋に叙す。上皇初めての熊野詣の別当への賞である。永久4年11月11日に法眼に転じ、同5年11月16日に法印に転じる。同院の熊野詣の賞である。この度、御塔供養がある。保安3年11月に死去。熊野僧綱はこれをもって初めとなす」と見えているので、永久4年に法橋に叙すというのは誤りである。

考えるに、『尊卑分脈』に、太政大臣忠平公の四男、左大臣師尹(もろただ)公(小一条家の祖である)の子に長快を載せて「熊野別当、実方の子である」とある(大系図には「実方の子である。熊野別当」とある)。この文は元は「熊野別当、実は実方の子である」とあったが、実の字が2字重なっているので脱したのであろうか。しかしながら実方の子孫に列せずして、師尹公の子としたことは不審というべきだ。

また実方は長徳4年に卒し、長快は保安3年に死去する。その間121年を経ているので、実方が卒した年に生まれたとしてもたいへん高齢であることは疑わしいが、ましてその祖父師尹の子である理はない。

であるので、古くは小一条家の系図は長快の条はなかったのを、他書に長快を実方の子孫とした系があったので、その系図の中に書き入れて、遂に混じて師尹公の子のようになったのであろう。

熊野別当が実方の末孫であることは、永徳2年の文書の裏書きに「みかりせし行野の山の村雨にぬれしぞ家のはじめなりける」という歌を載せる。これは実方が東山で遊んで雨にあったときのことをいっているので、証とすべきだ。

また下に引く『剣の巻』にも「実方中将の末孫である」と見えているので、疑いはないだろう。『剣の巻』に「白河院が熊野御参詣のとき、この山には別当はあるかとお尋ねになったところ 、いまだございませんと申したので、争いかそのようなことがあるだろうと別当の機を尋ねる。ちょうどそのとき権現の御前に花を供えて籠っている山伏を別当になるべき由と鈴木が計らいに申したところ、我が身はその器量に足らないといって(考えるに、本書は欠文でその意味は解しがたい) 、教真別当の始まりである(教真は長快の誤りであることは下文に詳らかである)」と見え、また「教真は実方中将の末孫である」とある。

この文を考えると、寛治4年の白河上皇の御幸があったとき、実方中将の子孫の長快というのを初めて別当に補したのを教真と誤って書いたのであろう。長快が初めて別当にとなり法橋に叙したことは『中右記』『尊卑分脈』『初例抄』等に見えている通りである。また為義の娘(立田腹の娘)を娶ったのは湛増の父の湛快で、湛快はすなわち長快の子である。

さて『剣の巻』に、権現の御前とあるのは三山いずれの神前とも定めがたいが、宇井・鈴木の2氏は新宮に多く、今の神官の祖もこれらより分かれたとの由をいうので、新宮の神前でこのことがあったに疑いない。そのときは長快も新宮の地に住したのだろう。なお下条を考え合わすべし

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牟婁郡:紀伊続風土記