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第18代熊野別当 湛快:紀伊続風土記(現代語訳)


第18別当 湛快

久安2年3月補任。長快の四男。47歳のとき、鳥羽院と美福門院の勧賞で、法任寺院御時に補任。大僧都先法印、承安4年。男子4人、女子5人。76歳で入滅。治山28年。

 

 

『本朝世紀』の久安6年2月13日に僧綱の任を記して「法眼湛快(熊野別当、元法橋)」と見える。また仁平元年4月26日に「右少資長を召し、法眼湛快に法眼を叙すべきとの由を仰せ下された(熊野別当院御幸の賞)」と見える。この人は『尊卑分脈』でも本書と同じく長快の子とする(『愚管抄』に熊野別当湛快と見えているのは湛増の誤りであろう。湛増の条に詳らかである。『長門本平家物語』に「熊野別当湛増法眼子息湛快父子に仰せて云々」とある湛快は同人ではない。快の字は誤字であろう)。

『剣の巻』に「為義は腹々に男女46人の子がいる。熊野にも女房がいて、娘をたつたはらの女房と申し上げる云々。別当は重代すべき者である。聖にて叶うべからず。妻を合わせよといって誰がいるだろうかと尋ねると、為義の娘たつたはらの女房がよいだろうといって教真に合わせた。

為義がこのことを聞いて『為義の聟には源平両家の間で弓矢に携わって秀でている者をと思っていた。諸寺諸山の別当執行ということは好ましい者もあり悪しき者もある。行徳が群を抜いたのならば左様な官にも職にもなると聞く。行末も知らぬ者を押して合わせるのは不思議である』と言って音信を不通にし、不孝の娘であった」とある(『尊卑分脈』では為義の子の内にこの女は見えない)。

この文は長快が別当になった時のさまに聞こえるが、時代が相違し、系図等にも合わない。湛快であることは疑いない。

ちなみにいうが、この立田腹の女房は初めは湛快に嫁いで湛増を産んだ(『尊卑分脈』と『剣の巻』の意による。ただし『剣の巻』に「教真の子息5人を本宮・新宮・那智・若田・田辺の5ヶ所に分けて置く。この中で何も長じた者が別当を継ぐようにと遺言したが、その頃は田辺の湛増が長じたので別当であった」とある。考えるに若田は富田の訛であろう)。湛快の死後に鳥居法眼行範に嫁いで行快・行忠・長詮らを産む。

『東鑑』 元暦2年2月19日の条に「熊野山領の三河国の竹谷・蒲形両庄のことで、その決定があった。当庄の根本は、開発領主散位俊成が熊野山に寄進したことから始まり、熊野別当湛快がこれを領掌し、女子に贈与した。件の女子は初め行快僧都の妻であった。後に前の薩摩守の平忠度朝臣に嫁ぐ。忠度が一谷において誅戮された後、没官領(※もっかんりょう:平家が没落・滅亡した際に朝廷によって没官された所領。その多くが後に源頼朝に与えられた※)として、武衛(※源頼朝※)が拝領なさる地である。

それなのに、領主の女子が元の夫の行快に懇望させて言うには『早く事情を関東に愁い申し、件の両庄を元に戻したい。もしそうなれば、将来、行快と自分の間 にできた子息に譲ろう』と。この契約について、行快僧都が熊野より使者(僧栄坊)をよこして言上したところである。

行快というは、行範の一男、六条廷尉禅門為義の外孫である。源家においてそのつながりは特別である。よってもとより重んずるところであり、この愁訴を、あれこれいうことなく聞き入れた。また御敬神のためでもある、と云々」とある。この文に為義の外孫とあるので、行範に再び嫁いだ証とすべきだ。さて湛快の娘とあるのは立田腹の女房が産んだ娘で、行快とは異父同母であったのか、また湛快の妾などが産んだ娘か。考えにくい。

  熊野の説話:平忠度の母と妻

また建久5年8月12日の条に「但馬の国多々良岐庄をもって、初めて地頭補任の地として熊野の鳥居禅尼(故左典厩(※源義朝※)の婦公) に付けらるべしと。日者強いて彼の辺を所望する事他に異なるの間、地頭補任の御下文を遣わさる。ただし有限の領家の乃貢・課役等に於いては、懈怠有るべからざるの由、今日御消息を遣わさると云々」とある。註文に「故左典厩の婦公」とあるのは姉公か妹公かの誤りであろう(義朝の妻であるべき理はない)。

また承久4年4月27日の条に「鳥居禅尼の所領である紀伊国佐野荘の地頭職を禅尼の死後に子息の長詮法橋に相伝するとのことを仰せられる云々。かの禅尼は六条廷尉禅門の妹、右大将家(※源頼朝※)の姨(おば)である。よって数ヶ所の地頭職を避けしめ賜わった。

しかしながら子息法橋行忠(行詮の兄)は母の命に背き、当荘を押領した。あまつさえ去年兵乱のとき、仙洞(※上皇の御所※)にお仕えして合戦を致す。零落の後になお当荘に立ち還るとのことだ。行詮が訴え申すことについてはこのようである。行詮は関東御祈祷の忠にひときわすぐれている云々」とある。この文に六条廷尉禅門の妹とあるのも誤りである。右大将家の姨とあるのを正しいとして妹は娘の誤写とすべきだ。

行快の死後に鳥居禅尼と号す(『東鑑』による)。建久の頃に高齢で没したのであろう。墓は新宮城内にあるという(いま新宮の城山を鶴山と号す。その地に旧東仙寺という寺がある。ゆえに東仙寺の山号を丹鶴山と号し、本尊を鶴原薬師と称して鶴田原の女房の持仏であったという。これは立田腹の女房を田鶴原(たづたはら)の意味にとりなしたので、おそらくは誤りであろう)。

『剣の巻』にまた「源平がたて分かれて合戦があるだろうと噂になった。洛中の騒動はひととおりでない。どんな遠国深山の奥までもその噂が聞こえないということはなかった(考えるに、この合戦のことは他に証がない。崇徳近衛2朝のことであろう)。教真別当がこれを聞いて、我が身は不孝の身であるが、このようなときに力を合わせてこそ不孝も許されるだろうと考えて常住の客僧、山内の悪党など上下を嫌わず催し立て1万余騎の勢で都に上った。

人々はこれを見て『これはどんな人だろう。和泉・紀伊の間にはこのような大名がいるとも思われない』と思って詳しくこれを尋ねると、為義の聟、熊野の別当教真である。舅の味方をするためにと思って上ってきたということを言ったので、為義もこれを聞いて『氏素性は知らないが、頼もしい者であることだ。どんな人の一門か』と尋ねると、『実方中将の末孫である』と申したので、『さては為義が下にできる人ではなかったのだ。今まで対面しなかったのは愚かであった』と言って招き寄せ、対面する。

志の感じ入ったのであろうか。重代の一具の剣を取り分けて吼丸(ほえまる)を聟引出物にした。教真別当はこの剣を得て『これは源氏重代の剣である。教真が持つべきではない』と言って権現に進献した」とある。教真は湛快の誤りであろう。『剣の巻』には湛快・湛増を混じて教真と書いたのだ。

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牟婁郡:紀伊続風土記