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小栗須村:紀伊続風土記(現代語訳)


小栗須村 こぐるす

板屋村の辰の方(※南東微北※)8町にあって入鹿川を隔てて大栗須村に向かっている。栗須は古くは栗栖と書いていた。地名の意味は名草郡栗栖の条下に見える。

入鹿八幡宮  境内周60間
  本社3扉  末社1社  拝殿
村の東2町ばかりにある。荘中8ヶ村の産土神で大社である。勧請の時代は詳らかでない。あるいは中世当荘の領主入鹿某という者が当社及び慈雲寺を造立したという。ゆえにその一族属邑ことごとくが氏神氏寺と称する。その家が絶えて後もその一族等が21年を目当てに改造して今に至っている。

毎年8月15日の祭礼には古くは一族等が大当を勤めたが、雑費が多いので後は省略して三貫当というのを勤めたが、これも天正17〜18年の頃から止めてしまった。また正月2日にケチマトを射たが、これも大阪乱後に絶えてしまったと寛文記に見えている。

今伝えるところでは延徳3年の棟札に総領義家とあって、裏に時時取合施主山本□□奉行大栗栖後とある。この総領義家というのは入鹿殿の祖先であろう。また大永3年の棟札に入鹿村総領義並一族等本願主山本助九郎義則、永禄3年の棟札に本願主大栗洲後義明(同亀鶴丸・同孫二郎とある)、天正7年・慶長9年等の棟札が連綿とある。

慈雲寺  光山 禅宗曹洞派越前国永平寺末
村の北にある。荘中の本寺である。寺内に慈雲開基鹿翁古苑大禅門という位牌がある。これが入鹿氏の祖というが、年号がない。入鹿氏の没落後、村民が永平寺の尊海禅師を帰依して末寺となり、草庵も修造し今のようになったという。

入鹿殿宅跡
村の西にある。東西50間、南北82間。いま田畑となる。寛文記に入鹿殿という領主がこの地に居住したが天正17〜18年の頃にその家は絶えて空き屋敷となったとある。村中の八幡宮の棟札に入鹿村惣領と見えているのはすなわちこの家でこの地を領していた人である。

いま荘中9ヶ村の中にその一族と称する家が数軒ある。今でも八幡遷宮のときは坐を定め拝をなすが、その一族の中古伝を伝えている者はいない。また荘中に入鹿一族山という9ヶ村持合いの大山があって氏神氏寺の修復造営の費用に当てている。

これが入鹿一族の大略である。なお八幡の条下を合わせて考えるべきである。この他に入鹿のことを記したものはない。

同陣屋跡
村の乾(※北西※)にある。入鹿殿の城という。総地取東西27間・南北21間。本丸・二丸などの跡は備わっていたが今はわかちがたい。

入鹿鍛冶本宗屋敷跡
村の巽(※東南※)にある。東西10間・南北15間ある。昔、入鹿本僧という鍛冶の名手がいて、ここに住み、鑓刀脇差を打ち鍛えた。その地に深さ1尺5寸・幅2尺四方の井戸があり、このとき用いた水だという。この井戸で穢れのある人が水を汲めば水の色が変わると言い伝える。ただし今は水はない。

入鹿鍛冶のことを調べると、『古今鍛冶考』という本に紀伊国鍛冶系図を載せて本宗という者がある。その伝に「光明帝御宇、康永年間、包貞の子。あるいは正治年間、入鹿仲実の門人」と見える。その他、実世・鹿実・真重などが入鹿に住んだと見える。この一族が打ったものを世に入賀物と称するといっている。これによると本僧は本宗の文字を誤ったもので、すなわちその人である。系図全文を下に載せる。

考えるに、入鹿殿が京都から来たとき、刀鍛冶を連れて来て釼刀を打って職となさしめ、遂にこの地に住居し、子孫も同職を仕事としたが、入鹿殿の家が断絶してから、その家も断絶したか、また他へ移住したのであろう。

   紀伊国鍛冶系図
 包貞(伏見御宇正応椙法師と云。粉川住吉吉野山神氏本国大和後包吉氏切正成大刀作)
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 本宗(光明御宇康永包貞子或正治入鹿仲実門人と)
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 (※以下略※)

三重県熊野市紀和町小栗須

読み方:みえけん くまのし きわちょう こぐるす

郵便番号:〒519-5414

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