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大俣下番村:紀伊続風土記(現代語訳)


大俣下番村 おおまたしもばん

小坂村の北23町にある。元禄検地帳では1村であったが、その後、上番下番と分かれる。大俣は本川のつまりで、小俣に向かった名である。

飛鳥明神社  境内周120間
村の中にある。上下大俣と小俣村と3ヶ村の産土神である。あるいは大俣村の地士南某の祖が勧請したという。寛文記には「小坂村より勧請する。若宮拝殿6間3間、玉垣16間、御供田が2段2畝あった」とのことが見える。

小祠1社

大義院  長谷山 禅宗曹洞派山城国宇治興聖寺末
村の中にある。寺伝に、寛文2年に宇治興聖寺5世万安和尚を招き、法地を開山する。什物に大般若経100巻がある。宝治建長年間の古写で、後世写し足し繕って100巻とした。その中で高野僧深賢の奥書があるものは能書で見事である。

旧家      南角兵衛
その家が伝えいうことには、その祖は星野源六左衛門という。南朝に仕えて功があった。皇孫が赤松のために弑せられなさって後、落人となり、和州桑原村から当村に来て代々居住する。それより居地の字を星野平という。源六左衛門の5代の後に故があって星野の氏を南と改める。

古い茶入れを蔵している。南帝の御自作と言い伝える。また胄2鎧2領、雑兵の甲冑が1具ある。鎧の大袖の金具に天照八幡春日の文字を所々に彫り付けている。今は大きく損じて用い難い。これが六左衛門の武具だという。

5代の孫の南新左衛門は九鬼大隅守に従って、高麗に出陣した。分収の由でさはりの椀匙等の古物を蔵す。他に浅野右近大夫及び戸田六左衛門、湯川五兵衛等の書簡を数通蔵す。

その子、角兵衛は北山一揆に功があって浅野家から北山組の鉄砲組頭を命ぜられ、その子八左衛門から代々の地士で数代大荘屋を勤める。

三重県熊野市飛鳥町大又

読み方:みえけん くまのし あすかちょう おおまた

郵便番号:〒519-4561

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牟婁郡:紀伊続風土記