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口色川村:紀伊続風土記(現代語訳)


口色川村 くちいろがわ

色川神社

小坂村の亥の方(※北北西※)1里5町ばかりにある。色川の源である。源にして口というのは那智の方からいう言葉である。ゆえに小森川村樫原村などの村を奥色川という。色川の称は荘論に詳しい。この村は雲取の西南の麓で高山を抱擁し、深山の谷の中にある。甚だ僻村である。

深瀬明神森  境内森 東西70間、南北25間
村の南11町余り、溪水の合流する所にある。挺立している巌壁を祀って社はない。ここは険しい山が両方から迫って切通しのようである。巌壁はその高さ14.5丈ばかり。はなはだ雄偉である。色川郷中の産土神で京師深草明神を勧請したと言い伝える。考えるに深草明神を祀るということは覚束ない。深瀬はすなわち色川の深瀬で川の神を祭っているのであろう。色川の名もここから起こっていることも思うべし。

色川神社
  熊野の観光名所:色川神社

宝泰寺 如意山  禅宗臨済派海部郡由良興国寺末、村中にある。

城跡
村の巳午の方4町にある。城ノ森という。天守、二ノ郭、三ノ郭、長屋、並びに門、堀、追手などの跡がある。維盛の長男、盛広の居城であったという。また村から巳の方(※南南東※)6町に砦のような跡がある。

  熊野の説話:平維盛の熊野詣

滝5  鳴滝  入道滝  比丘尼滝   三重滝(上20間ばかり、中30間ばかり、下23間ばかりなたれ滝である)  仙人滝(30間ばかりなたれ滝である)
上記の5つの滝はみな色川郷の奥にある。鳴滝は赤川という谷の奥にある。赤川は渓に銅気があって水色が赤い。ゆえにその名がある。那智四十八滝の内である。

旧家     清水氏
相伝えることには、平族が亡んだ後、三入維盛卿が当郷に来奔した。この土地の著姓等は密かに迎えた。維盛は大野村の奥、藤綱の要害に匿われ、その3年後に当村に移り、氏を清水と改め郷士となり村の著姓と婚を通した。その子孫を色川一族という。応永年中に書いた色川清水家由緒書に詳しい。

  熊野の説話:平維盛の熊野詣

建武の頃、色川左兵衛尉平盛氏という者が南朝に奉仕して軍功があった。建武3年、法勝寺宮から日高郡岩代荘を賜わる。また建武3年、法勝寺の宮からその子盛忠の軍忠を賞して兵衛大夫に任命される。延元年中の盛氏の注進状に、浜ノ宮村佐野荘・新宮などで尊氏の一族と戦って忠を尽くし、山城国山崎の向明神の林などで合戦があったことを書いてある。また興国3年の五辻親王の令旨を所蔵する。両朝御和睦の後までも一族等はなお南朝に心を寄せていたのであろうか。康正元乙亥年、忠義王(後亀山院第2皇子の曾孫尊秀王の弟である)が北山郷にいらっしゃったとき御書を賜わる。これらの文書はみな家に所蔵する。

村中の城の森はすなわち盛氏の城跡であるという。またその旗であるといって古い旗数流を伝えている(揚羽蝶の真向の紋の付いたものがあり、日の丸の付いたものもある)。また古い仮面を数種伝えている(みな大野村の八幡宮に収めてある)。

和歌山県東牟婁郡那智勝浦町口色川

読み方:わかやまけん ひがしむろぐん なちかつうらちょう くちいろかわ

郵便番号:〒649-5451

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牟婁郡:紀伊続風土記