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神倉社:紀伊続風土記(現代語訳)


新宮部下 神倉社

神倉神社

神倉社(6尺3寸余・7尺8寸)
 祀神 高倉下命
 並宮(4尺4寸・4尺8寸)
  拝殿(12間5尺5寸余・5間3尺1寸余。あるいは本堂という)
  御供所(5間・3間半。本社に至る途中にある。
      大黒天を祀っている。土地の人は俗に神倉の大黒という)
  鳥居(山麓にある)
  下馬立石  神倉神社の下馬標石

 末社
  満山社(方3尺) 子安社(3尺2寸・1尺5寸) 中地蔵(方2間)

神倉山にある。この山は権現山の南端で、怪岩が聳え、社殿はその半腹にあって麓より石段を3町ばかり登った所にある。本社と並宮は岩がそばだつ内にある。拝殿は懸作である。当社が祀る神は熊野の高倉下神で、神武東征の御時に神剣を献じたことは『古事記』『日本紀』に詳らかで、神系は『旧事記』の天孫本紀に載せる。
  熊野の観光名所:神倉神社

『古事記』に以下のようにある。

神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれひこのみこと)はそこから迂回しなさって熊野の村にお着きになったときに、大きな熊が草木のなかから出たり入ったりして、すぐに姿を消した。すると、神倭伊波礼毘古命は急に気を失って、また、軍隊もみな気を失って倒れてしまった。

このときに熊野の高倉下(これは人名)が一振りの横刀(たち)を持って、天つ神の御子(イワレヒコ)の倒れている所に来て、その横刀を献上したところ、天つ神の御子はたちまち目覚めて、「長寝したものだ」とおっしゃった。そして、その横刀を受け取りなさるときに、その熊野の山の荒ぶる神は自然とみな切り倒されてしまった。すると、気を失って倒れていた軍隊もことごとく目覚めた。

そこで、神の御子はその横刀を得た仔細をお問いになったところ、高倉下が答えて申し上げた。
「私の夢に、天照大御神と高木神の二柱の神が建御雷神(たけみかづちのかみ)を召して、『葦原の中つ国はたいそう騒がしいようである。我が御子たちは困っているらしい。その葦原の中つ国は、もっぱら汝が平定した国である。そこで、汝、建御雷神が降って再び平定せよ』とのご命令をお下しになった。すると、建御雷神は、『私が降らずとも、もっぱらその国を平定した横刀があるにで、この刀を降しましょう』とお答え申し上げた〔この刀の名を佐士布都神(さじふつのかみ)という。またの名を甕布都神(みかふつのかみ)という。またの名を布都御魂(ふつのみたま)。この刀は現在、石上神宮にいらっしゃる〕。そして、建御雷神は今度は私に向かって、『この刀を降す方法は、高倉下の倉の屋根に穴を開けて、そこから落とし入れよう。そこで、朝、目が覚めたら、お前は、この刀を持って、天つ神の御子に献上しろ』とおっしゃった。そこで、夢の教えのままに朝早く自分の倉を見たところ、ほんとうに横刀があった。よって、この横刀を持って献上したのです」

『書紀』に以下のようにある。

そこに熊野の高倉下という名の人がいた。この人のその夜の夢に、天照大神が武甕槌神に語っていわれるのに、「葦原の中つ国はたいそう騒がしいようである。汝が行って平定せよ」と。
すると、武甕槌神は、「私が行かずとも、私がその国を平定した剣を差し向けたら、国は自ずと平定されるでしょう」と答えられた。天照大神は「もっともだ」といわれた。
そこで、武甕槌神は高倉下に向かって、
「私の剣の名は韴霊(ふつのみたま)という。いま、あなたの倉の中に置こう。それを取って天孫に献上しなさい」と語った。高倉下は「承知しました」と答えると、目が覚めた。

そこで、夢の教えのままに翌朝、倉を開いてみると、ほんとうに剣が落ちていて、倉の床板に逆さに刺さっていた。それを取って献上した。

『旧事記』天孫本紀に以下のようにある。

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)は、天道日女命(あめのみちひめのみこと)を妃として天上で天香語山命(あまのかごやまのみこと)をお生みになり、御炊屋姫を妃として天降って宇摩志麻治命をお生みになった。

ニギハヤヒの子の天香語山命〔天降って後の名を手栗彦命(たぐりひこのみこと)、または高倉下命(たかくらじのみこと)という〕。この命は御祖天孫尊(ニギハヤヒ)に随って天から降り、紀伊国の熊野邑にいらっしゃった。

天孫・天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵尊(あめにぎしくににぎしあまつひこほのににぎのみこと)の孫の磐余彦尊(いわれひこのみこと)が西の宮から出発して、みずから船軍を率いて東征されたとき、往々にご命令に逆らう者が蜂起していまだ服従しなかった。

中つ国の豪雄・長髓彦(ながすねひこ)は兵をととのえて距離を置いた。天孫(イワレヒコ)は続けて戦ったが、勝つことができなかった。

先に紀伊国の熊野邑に至った。悪しき神が毒を吐き、人々はみな病んだ。天孫はこれに患い、逃れる術を知らなかった。

高倉下命はこの邑にいて、夜中に夢をみた。

天照大神が武甕槌神(たけみかづちのかみ)にいわれた。「葦原の瑞穂国はたいそう騒がしいようである。汝が行ってこれを平定するがよい」
武甕槌神は答えて申しあげた。
「私が行かずとも、私が国を平らげたかのときの剣を下したならば、自然に平定されるでしょう」
そして高倉下命に言った。
「私の剣の韴霊の剣を、いま汝の庫の裏に置いておく。それを取って天孫に献ずるがよい」

高倉下命はこのように夢をみて「唯唯」といって目が覚めた。翌日、庫を開けてこれを見ると、はたして剣があって庫の底板に逆さまに立っていた。よって取って天孫に献じた。

そのとき天孫はよく眠っておられたが、忽然と目覚めていわれた。
「私はどうしてこんなに長く眠っていたのか」
ついで毒気に当たっていた士卒たちもことごとく目覚めて起きた。皇軍は中つ国に赴いた。

天孫は剣を得て日増しに威を増して、高倉下に詔して褒めて、侍臣としたのだ。天香語山命は、異腹の妹の穂屋姫(ほやひめ)を妻として一男をお生みになった。

   以下は今は略する。詳しくは本書で見れる。

神名の意味だが、倉はクラという。借字で倉庫などの意味ではない。『書紀』に開庫また庫裏などの庫の字を書いているのは倉を庫の意味として撰者が文字を換えたのであろう)。クラは「暗い」の意味にも「坐」の意味にもいうけれども、このクラは険しく聳えている形の峰をいう古言である。古書の梯立の倉橋山・高倉山・並倉山・暗部山・鎌倉山などという名のクラはみな山嶽の険しいことから名づけたことは梯立の倉はしという言葉でも知ることができる。他で嶽また岩山などいう険しい嶽を熊野山中ではクラという(この言葉は熊野の方言で嶽というものは少しなので峻峯の名に何クラというのが多くある)。

さてそのクラの下に坐す神なので倉下と称えたのだ。『古事記』に「高倉下の倉の頂を穿ち、そこから落とし入れよう」とある倉の頂はこの神倉の山の頂である(頂は『和名抄』『新撰字鏡』等でもイタダキと読んでいる)。かの武甕雷神(たけみかづちのかみ)が天から下したもうた剣が峻峯を貫いて高倉下が臥していた板底に落とし入れたのだ。この剣を韴霊(ふつのみたま)というのは物をフツと斬る勢いをもって称号を付けたのであろう。剣の切れ味の鋭さを想像できる。永和2年の文書に「神武皇帝は当社より神剣を預って朝敵巨酋を誅した」と見えるのもこの剣をいっているのだ。

今この嶽を神倉という。神も峻峯を称えた言葉で、その称は古くは『続古今集』の詞書に見える(下に載せる)。

○並宮は天照大御神を祀る由をいい伝える。

○『日本紀』の神武天皇が熊野に幸したまえる条に「且つ天磐盾に登る」という文がある。『釈日本紀』に「天は例文、磐は常磐竪磐の意味、盾は千櫓の属、云々。然れば即ち舟中所安の大楯である」と註してあるのは誤りで、この神倉の峻峯をいっているのであろう。

くまのにまうで侍ける時かんのくらにて太政大臣
従一位きはめぬることを思ひつゝけてよみ侍る
                入道前太政大臣

 続古今集
  三熊野の神くら山の石たゝみ のぼりはてゝも猶祈るかな
    熊野の歌:神倉山

  神宝
韴霊御剣  1口
  (考えるに、武甕雷神がお授けになった御剣は大和国石上神宮に
   納めてあることが古書に詳らかだ。この剣は後世の模造であろう)
御剣    1口
擬宝珠   南龍公の御寄付である。
矢根    8束
華厳経   1巻
焼鎌敏鎌(やきかまのとかま)
  (考えるに、応安年中社務注進案に「神蔵御宝殿今月八日丑刻焔上神殿宝蔵御神宝悉以無残所……」とあるので、以上の神宝はみな応安以降の品であろう。その内に焼鎌敏鎌は剣のような形で古色を帯びている。これは応安以前の品であろう)

  祭式
正月元日寅刻献御供(祝詞、誦経などがある)
 並びに毎月1日誦経
正月6日
 同日酉刻に祈願の者が近郷より数百人群参する。みな白装束を着て各々焼松を1束ずつ携え、石段を走り登って本堂に籠る(すなわち拝殿である)。この日、神倉聖(下条に載せる)が斧鉞を執り、参籠する者に異例があればこれを制する。参詣の者が焼松を持ちながら残らず堂内に入ると、神倉聖は堂の戸を閉じて誦経をなす。その間数千の焼松で堂内を焦がすが如く参詣の者は火煙の中に群れて祈願をなす。誦経が終わって戸を開けると、みな競って下る。悪穢に触れた者がもし過ってこの日に参詣すると必ず凶事があるという。
同7日子刻開帳
同8日修正法会(この日、神殿の四方へ牛王印を押す)
毎月18日護摩修行
4月8日より100箇日の間、夏花を供える。
5月18日夜神事扇立法華懺法読経
7月19日子刻開帳

  社僧(合せて4人)
神倉聖ともいう。権現宮の社僧の内4院より兼帯する。この職になるとき10日の行を勤めることから行人ともいう。

  本願(妙心尼寺・華厳院・宝積院・三学院)
今は妙心尼寺1寺で、3院は頽転。妙心尼寺は中の地蔵の本願という。この外に橋の本願・道の本願などいう山伏があったとか。これはみな参詣が多かったとき道路に橋を造り、あるいは道を平らにし、その価として参詣者の銭をむさぼったのだ。

    残位坊(4人)
社僧の下役人で俗体である。

和歌山県新宮市神倉1-13-8

読み方:わかやまけん しんぐうし かみくら

郵便番号:〒647-0044

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牟婁郡:紀伊続風土記