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四箇荘:紀伊続風土記(現代語訳)


四箇荘 しか 全4ヶ村

四箇荘全4ヶ村、東は海に面し、南は熊野川を隔てて新宮に相対し、西は大野荘有馬荘の2荘に接し、北は有馬荘阿田和村と界する。その広さは東西の広い所は1里ばかり、狭い所は18町。南北は1里半ばかり。

この荘はわずかに4ヶ村なので四箇荘という。四箇荘が古くは誰の領所であったか、今はわからない。だいたい新宮社家の領した所であろう。

その地は熊野川の海口の所にあって、新宮と川を隔てて南北に相対する。四方の廻船が寄り集まる地であるが、新宮の方に集まるので、その利を得ることはない。井田村は海に浜して漁を業とする者があるが、また大漁をなすには足らないという。ゆえに通して荘中を論ずると、尋常の野村である。

4ヶ村の中で鵜殿村・成川村の2村は天正慶長の頃、鵜殿氏が領した所で、堀内氏が盛んであったときに鵜殿氏が親族となってその族下に属した。大阪落城のとき、鵜殿石見守は堀内主水と共に天樹院尊夫人(※千姫、豊臣秀頼の正室※)を守護して大阪城中を逃れ出て台徳公の御陣に入れ奉り、その功によって2000石を賜わって簱下に召された。石見守が領地を他国に得ることを願わず、同じくはその旧領を賜わって故郷に帰ろうということから鵜殿にて1050石の地を賜わる。元禄の頃になって子がないために家は断絶した。

四箇荘4ヶ村

 


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牟婁郡:紀伊続風土記