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西谷村:紀伊続風土記(現代語訳)


西谷村 にしのたに 小名 古町(ふるまち) 目良(めら)

八立稲神社

 田畑高 578石6斗4合5勺
 家数  206軒
 人数  947人

芳養荘下村の東18町、熊野街道にある。海浜に田辺城下に接している。当村は荘の中では西にある。村名はこれより起こる。本谷、御所が谷、千津谷など少しつつの谷が多い。小名は2つある。ひとつを目良といい(本村の南、海辺の谷間にある。熊野三山別当湛増の末流に目良氏がある。この地名より出たのであろう)、もうひとつを古町という。(略)

若一王子社  境内東西50間、南北2間。
 本社
 摂社  太神宮
 拝殿
村の中の氏神である。御幸記に出立の王子とあるのはすなわち当社である(出立の意味は詳らかに下の条出立松原の条で弁ずる)。古は拝殿回廊などがあったが、天正の兵乱でことごとく破損したのを後に再興したという。

出立王子跡
  熊野の観光名所:出立王子
  藤原定家の『後鳥羽院熊野御幸記』(現代語訳):1201年10月12日

東八王子社  境内周120間
村の中にある。土地の人の伝えによると、昔、杉若越後守がこの地の上野の城主であったときの鎮守であるという。拝殿がある。

八立稲神社
  熊野の観光名所:八立稲神社

西八王子社  境内周90間
 摂社  牛頭天王社
 拝殿  村の中にある。

西八王子宮
  熊野の観光名所:西八王子宮(上ノ山西神社)

大自在天社  境内東西100間、南北70間
 摂社  龍王社
 拝殿
村の中の天神山にある。大永6年修造の棟札がある。
   社僧   能満寺 天神山
天神社の側にある。真言宗京仁和寺末である。本堂(6間、5間半)、僧坊(5間半、6間)がある。末寺が1ヶ寺、村の中にある。

万福寺  用珠山 浄土宗鎮西派西方寺末
 本堂 鐘楼
村の中にある。古は湊村にあったのを享保14年に今の地に移したという。

地蔵寺  福田山 真言宗古義京仁和寺末
 本堂 僧坊 鎮守社 籠所
村の中にある。大破によって今、仮堂を建てる。

願成寺  對城山 真言宗古義京仁和寺末
 本堂(方7間) 護摩堂 地蔵堂 鎮守社 僧坊
村の中にある。開基は詳らかでない。昔、閑英湛正という僧が再興したので閑英寺と号す。伊作田村の高山寺が古くは勧修寺といったときの6坊のひとつであるという。寛永15年に願成寺と改める。

上野山城跡
村の西3町ばかりにある。今、畑となって城跡の間数は明らかでない。天正18年に杉若越後守が芳養荘下村の泊山城より当城に移り、後に慶長5年に浅野左衛門佐が居城したといっている。田辺城の旧地である。詳らかに田辺城の条に載せる(古の土地の伝えによると、当城は旧湯川家の砦で、天文23年8月、畠山植長の代には湯川荘司が畠山家に叛いたので山本掃部広信に命じてこれを攻めさせた。その後、畠山湯川和睦して当城を畠山家に渡して山本広信が城代となり、しばらく居住したとある)。城跡の下には尾の崎町・公文町・本町・江川町・片町・寺屋敷という町もあったが、城を移してからは多く古町と唱えて民家となり町名は小名となった。

御所が谷
出立王子の上にある。今は畑となる。土地の人の伝えによると、昔、熊野御幸のときの頓宮の跡であるという。『御幸記』に「先陣して田辺御宿を見て云々、御所は美麗にして、河に臨み、深い渕がある」(田辺河云々とある。御所の跡であろう)。
  藤原定家の『後鳥羽院熊野御幸記』(現代語訳):1201年10月12日

潮垢離浜
村の南の海浜3町ばかりをいう。また御腰掛岩を名づけた岩がある。相伝えていうには、後白河法皇が熊野御幸のときこの海水に浴しなさる。岩はそのときの御腰掛岩である。よって後世、熊野参詣の貴賎はここに到ると潮に浴して不浄を浄めるといった。土地の人は崇神天皇の熊野御幸のときの御事であるというのは訛であろう。『御幸記』に「先陣して出立王子に参る。この浜において御塩垢離、御所 中略 御禊がある云々」とあるのはこれである。このときも先例によって浴しなさったのだ。
  藤原定家の『後鳥羽院熊野御幸記』(現代語訳):1201年10月12日

蘇生山
往還の小坂である。土地の人はよろつ山という。黄泉(よみぢ)山を訛ったのだ(考えるに、熊野を俗に冥土黄泉の神であるというので、熊野路の坂であるのでよろつ山はよみぢ山といい出したのではないか)。

出立松原
『万葉集』中の本国の歌に出立(いでたち)という地名がある(歌は下に載せる)。室之江(むろのえ)に読み合わせている(室之江は田辺の海湾をいう)。今考えるに、出立(でたち)王子があり(上に載せる)、また慶長検地帳に田辺荘の諸村を出立荘とする。これらによると、出立はこの辺の地名であることは明らかである(出立の名は土地の人が伝えるには、熊野別当湛増が源平の乱源氏を助けるとき出立王子に詣でてそこから軍立したというのは□である)。

この荘と芳養荘の境の海浜に松の並木があるのを芳養ノ松原という。すなわち『万葉集』に「出立松原出立(いでたち)の清き渚」と詠んだのに適っている。しかしながら上古の牟婁温泉行幸の道は今と異なるので必ずその地であるとも定めがたい。広く田辺の海浜の地名とすべきだ。

万葉集九
  大宝元年辛丑冬十月 太上天皇大行天皇幸紀伊国歌十三首の中
わが背子が 使来むかと出立の この松原を今日か過ぎなむ

万葉集十三
紀伊国之室之江辺(略)

斎田橋
往還の道筋の土橋である。古跡であるといった。古くはサイタカ橋といったという。その意味は詳らかでない。

狼煙場
天神山にある。

燈明堂
海湾の南の端、千畳敷の南にある。回船が海上からの準的とする。この辺りは鉛を掘った穴が多くある。

千畳敷
海湾の南の端にある海岸は絶壁で、舟を操る者がはなはだ恐れる所である。石岩は波に削られて奇状□異、ほとんど鸞鶴が飛び舞うかのように蛇龍が交戦するのに似て最も壮観である。またその上は席を布いたかのように平らであるので千畳敷という。


千畳敷の南三段という所にある。幅わずかに5尺余りで深さ2町に余る。幅狭く舟を回すことができない。内は暗黒で松明がなければ入りがたい。

古町

目良

和歌山県田辺市元町,古尾,目良,上の山

読み方:わかやまけん たなべし もとまち,うえのやま,ふるお,めら

郵便番号:〒646-0053,〒646-0059,〒646-0058,〒646-0061

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牟婁郡:紀伊続風土記