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名草郡:紀伊続風土記(現代語訳)


名草郡 総論

日本書紀  神武天皇戊午年夏六月乙未朔丁巳、名草邑(なくさむら)に至り、則ち名草戸畔(なくさとべ)を誅す。
名草の名は初めてこれに見られる(倭姫世紀に奈久佐とある)。紀ノ国造第5代に大名草彦命がある(崇神天皇、垂仁天皇の御代の人である)。本国神名帳に名草比古ノ神、名草姫ノ大神がある。名草は。古い邑里の名で人名、神名みなこれに依っている。

孝徳天皇の御世に国郡をお定めになってから名草をもって郡名となさった(国造旧記曰く「十九代大山上忍穂名草郡を立てる」とあるのがこれである)。その名義は詳らかでない。諸説に渚の意味であろうという(渚和名□韓詩注云一は溢れ一は否さるを渚という。和名は奈木左という。木と久とは語が通って古の地形によるので由緒ありげに聞こえる)。

郡の広さ、東は那賀ノ郡に接し、西南は海部ノ郡に接し、北は和泉国日根ノ郡に堺する。東西の行程は6里余り、南北3里半。当郡は古20郷(古の郷名は下に見える)。

中世、あるいは廃しあるいは存しあるいは諸家の領となり、だいたい紀ノ川より南は3に分かれて、南の方を三上院十二郷という。秦氏の領となり、後に歓喜光院の領となる。東の方を山東荘という。根来寺の領となる。西北の方を神宮郷という。日前宮の領となる。川の北はそのころ公田であったのか封邑であったのかわからない。その後分割合併様々あって、ついに郡中19荘となった(各荘領主などのことは各荘の論に詳らかである)。

郡中の日前国懸両宮の鎮座している所で、その他の名神も多くこの地にいらっしゃり、多くは神地神戸である。ゆえに延喜式でこれを神郡と称す。古より諸郡の中で田地が平で広く播種地によく五穀野菜から草蓏衆草に至るまで生殖しないものはない。人民は富み人口が多く郷里の数も他郡より数倍多い。官知の神もまた多い。国中の物が一か所に集まる地であることを知るべし。ゆえに国造はここに居住し、国府をこの郡に建てられ(直川荘府中村)、守護もここに居住している (大野荘)。

たいていの国の中の貴族著姓でここ出身である。養老以下国史に載せるところを考えると、あるいは爵位を賜い、あるいは姓を賜う、紀ノ直紀ノ朝臣名草ノ宿称などを賜うなど、幾十人になるかわからない(国史の文は下に出ている)。このように他郡と比較にならない。(略)

  • 郡中の古郷名20
  • 郡中の村名
  • 郡中の田畑総数
     田畑高  8万7779石
  • 郡中の戸口総数
     家数  1万3740軒余
     人数  5万6740人余
  • 郡中の山川
  • 郡中の名勝旧蹟
  • 郡中の古祠
  • 郡中の熊野街道王子社
  • 郡中の古刹
  • 郡中の街道
  • 名草海部地形変遷図並記
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    名草郡:紀伊続風土記