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湊村 新熊野闘雞権現社:紀伊続風土記(現代語訳)


湊村 みなと 小名 敷(しき) 小泉(こいずみ) 志保古(しほこ)

新熊野闘雞権現社  境内周6町13間。馬場は長さ127間、幅6間。
 證誠殿  前行1間2尺余り
 西御殿(速玉社・結宮)  前行3間
 若殿 若女玉子  前行1間1尺
  以上を上の四社と称する。 
 禅師宮
 聖宮
 児宮
 子守宮 四社相殿  前行2間2尺余り
  以上を中の四社と称する。
 一萬宮
 十萬宮
 勧請十五所
 飛行宮 四社相殿  前行2間2尺余り
  以上を下の四社と称する。
 摂社 玉置権現社
 末社3社 弁財天・大黒天・役行者
  萬山宮八百萬神遥拝所
  拝殿(東西3間、南北5間) 舞殿(表1丈8尺、奥行2丈8尺余り)
  絵馬堂(東西3間、南北5間) 経蔵(方2間半)

闘雞神社
  熊野の観光名所:闘鶏神社

村の南にある。境内は山に寄る。社殿は壮麗で近郷の大社である。田辺城下の総産土神とする。社伝によると、熊野別当 湛快のとき(湛快は藤原実方朝臣の裔熊野別当泰救のひ孫という)三所権現をこの地に勧請して新熊野と称する。この地はその頃三山の領地であったので勧請したのであろう。湛快の子を湛増という。初めて当所に住居する。人呼んで田辺別当という。元暦元年、源頼朝卿の平家追討の時に当たって源平2氏のうちいずれを助けようと惑う。そこでこの社地に放し飼いしている鶏を赤白2色に分けて両氏の旗色に準え神前において闘わせた。白の鶏の方が勝ったので心を決して源氏を助ける。これにより闘雞権現と称したという。

(『平家物語』にこのことを記している。「熊野別当湛増は、平家につくべきか、源氏につくべきかと言って、田辺の新熊野で御神楽を奏して権現を祈誓し申し上げる。「白旗につけ」との権現の仰せを、なお疑って、白い鶏7羽と赤い鶏7羽を、権現の御前で勝負させる。赤い鶏はひとつも勝たない。みな負けて逃げてしまった。それでは源氏につこうと思い定めた。一門の者を呼び寄せ、都合その勢2000余人、200余艘の舟に乗りつれて、若王子の御正体を船に乗せ申し上げて、旗の横上には、金剛童子をかきたてまつって、壇の浦へ近づいて来るのを見て、源氏も平家もともに拝む。しかしながら源氏の方へついたので、平家は意気消沈した」)
  熊野の説話:平家物語11 湛増、壇ノ浦へ

慶長年中に浅野家より米5石を寄付する。元和5年領主安藤家が旧によって寄付する。神庫に永享8年の文書及び明応5年の勧進状(青蓮院准三宮の御書である)を蔵する。その他の神宝は天正の兵火に紛失したという。

古は社僧6人、講衆6人、神戸8人、神頭2人、堂下3人、承仕2人、本願1人がいて、神事祭礼も厳重であったが、乱世に至って大いに衰えたという。祭礼は毎年6月25日、その儀式は壮麗で田辺領内の諸荘の皆が群参する。
  熊野の祭り:闘鶏神社例大祭 田辺祭り

     別当  松雲院 真言宗古義京仁和寺末
 本堂(8間6間) 護摩堂(方2間半) 地蔵堂(方3間)
 歓喜天堂(2間2間半) 僧坊(6間5間)
境内にある。田辺城下の地士田所弥左衛門の祖が代々神職を勤めたが、慶安以後当院に譲ったという。当院は古くは、社僧6人いた内の、秋津荘下万呂村にいて待賢寺という湛増の子孫で妻帯である慶安2年びその住僧であった湛翁という者が寺を当社の辺に移して別当寺と称し清僧となる。その後、寺号を松雲院と改め仁和寺の松となる。
     社役人

      執行1人 楽人神頭1人 神子1人 堂下2人

     本願  大福院(修験を兼ねる)
大福院は社の境外にあり、別当湛増の末葉という修験で代々相続する。一山の修理のことを掌る。家に湛増の着用した烏帽子形の胄を蔵する。また弁慶産湯のという物を蔵する。その大きさは水2斗を入れることができる。
  み熊野めも:湛増の鉄烏帽子や鉄扇

  熊野の観光名所:闘鶏神社
  熊野の説話:平家物語11 湛増、壇ノ浦へ
  熊野の祭り:闘鶏神社例大祭 田辺祭り
  熊野を知るためのキーワード:熊野別当

和歌山県田辺市湊655

読み方:わかやまけん たなべし みなと

郵便番号:〒646-0031

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牟婁郡:紀伊続風土記