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桃崎村:紀伊続風土記(現代語訳)


桃崎村 ももざき 小名 高尾谷(たかおたに)

やどかし水神

大井谷村の丑の方(※北東微北※)13町余にある。村名については詳らかでない。山の尾崎が多く出ているので百崎の意味であろうか。小名高尾谷は村から北山を隔てて24、5町にある。家は8軒ある。

当村の領内は最も広く北の方の和州と堺を接する所はみな深山幽谷で、数里の間人跡がほとんど絶える。西の方は和州桑原村に接して近郷から和州北山荘に赴く者はすべてこの道に由る。これを和州街道という。

小祠2社

桃源寺  医王山 禅宗曹洞派越前国福井心月寺末、村領にある。山林が2ヶ所ある。

太郎坊権現
  桃源寺奥の宮 太郎坊権現:熊野の観光名所

北山流
源は大俣上番村の北、尾鷲領の堺から出て南の方、小坂村に至り、西に折れて□□屈曲して当村に至り、北山川に落ちる。郷中を7里余流れる。大井谷村から神上村までの4ヶ村を除いて郷中の諸村はみなこの流の左右にある。

湯谷村は別に枝谷の内にある。

大和街道
桃崎から大和の国に赴く者は和州北山荘桑原村に出て姥峯を越えて姥谷村を経て上市村に至る。山路は険峻だが、一条の通路である。神武天皇が八咫烏の導きに従いなさって大和国菟田郡宇加志村にお出になられたのもこの道に由ったのであろう。今これを桃崎街道という。

  神武東征、ヤタガラスの導き:熊野の説話

古士     山東氏
その家が伝えいうことには、先祖は名草郡山東城主山東和泉守という。建武・正平年中に南朝に奉仕して戦功を立て、文安元年に南方宮方に与する者達と共に南帝の王子円満院宮を守り立て申し上げ、紀州の人衆と蜂起したが、将軍家の管領が畠山尾張守持国のとき山東の城を落とされ、この地に退去して、後に子孫は西氏を名乗った。

その子孫、山東覚太夫は慶長年中に浅野家に仕えて200石を食み、元和5年に安芸広島へ従い移った。二男の覚弥は母子共に当村へ帰住して代々農を業としたが、近年になってその家は断絶したという。

三重県熊野市五郷町桃崎

読み方:みえけん くまのし いさとちょう ももざき

郵便番号:〒519-4671

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牟婁郡:紀伊続風土記