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伊作田村:紀伊続風土記(現代語訳)


伊作田村 いさいだ 村居は4ヶ所に分かれ各々小名がある。 下(しも) 荒光(あらひか) 谷(たに) 惑在(わくざい)

伊作田稲荷神社

 田畑高 569石8斗6升3合8勺
 家数  133軒
 人数  648人

西谷村の艮(※東北※)にある。村の名義は詳らかでない。考えるに、古、この地に井祭料の田があって井まつり田と唱えたのを祭の字を音に唱えて井さい田といい、遂に村名となったのであろう(井と伊と仮字も違い、作をさいと唱えるのも当たらないことなのでもとより文字を填めたことは当たらないだろう)。村は3つに分かれる。南にあるのを下といい、東にあるのを荒光といい、北にあるのを谷という。みな村を以て唱える。これを合わせて伊作田村という。谷の北に惑在がある。これを谷の小名とする。

北は芳養荘東山村と界をなす。南は下(しも)から北の芳養荘との界まで50町ばかりある。村の子丑の方(※北微東※)1町ばかりに平岩というのがある。弘法大師が求聞持の法を修した所という。

稲荷大明神社  境内東西5町、南北4町。
 本社(西稲荷三所明神、東熊野三所権現) 拝殿 籠所
 摂社3社

伊作田稲荷神社
  熊野の観光名所:伊作田稲荷神社 

荒光の北1町にある。鎮座の時代は詳らかでない。古くは湊村に 座していたのを後に今の地、岩城(いわき)山に移したという。伊作田・糸田の両村の産土神である(永正15年の縁起というものがあるが、奇怪でつかみどころのないことが多く信用しがたい)。明応9年、元亀2年修造の棟札がある。

元禄元年、朝鮮攻めのとき杉若越後守の息主殿が船10艘人数650人を率いて出陣しようとしてこの社に参詣し、その家臣黒坂某に命じて社人に開扉することを命じた。社人は辞して、古より開扉したことがないという。黒坂は許さず無理強いして開扉するとたちまち盲となった。

また慶長10年、浅野左衛門佐が命じて当社の社木を伐らせた。社人は黒坂が盲となったことを述べて辞したけれども聞かず伐り取って船を造らせた。その年の8月に船が沖合で難破した。これによって左衛門佐は松千本を社地に植えさせて謝罪した。これにより人はさらに神威を恐れたという。

神事は正月初午の日、5月5日、11月23日である。明応9年の棟札に神名を書いて阿羅毘賀大明神とある。荒光は地名で、その地に座すことからいうのであろう。

小祠3社
 山王権現社(社地周90間、下村にある)
 住吉大明神社(社地周22間、谷の北7町にある)
 牛頭天王(社地周1町24間、谷の北11町にある。谷1村の産土神である)

高山寺  正南面山 蘇悉地院 真言宗古義京仁和寺末
   境内(東西1町半、南北1町) 山周8町余り 禁殺生
 本堂(8間、6間) 大師堂(方2間) 香堂(方3間、大師堂の前堂である)
  多宝塔(方2間半) 護摩堂(方4間) 鐘楼 僧坊 鎮守社 

高山寺
  熊野の観光名所:高山寺

荒光の巽(※東南※)5町ばかりにある。当寺は古くは勧修寺といった。後に興算寺と改める。天明7年に今の寺号に改める。開基は詳らかでない。伝えいうことには、弘仁14年、弘法大師が熊野の神祠に詣でようとしてこの地を過ぎ、糸田川の淵に己の影を写して肖像1体を彫刻した。これが今の大師堂の本尊であるという。慶長年中、浅野左衛門佐より寺領3石2斗を寄付する。元和5年に領主安藤家より旧によりてこれを寄付する。

什物画幅の類を多く所有する。中でも文殊の墨画、曹溪愚極の書く所賛あり。役行者の像1幅は画いた人が詳らかでない。この2幅は筆力がすぐれ、平凡な腕前ではない。奇珍というべきだ。その他、領主より納めたところの詩歌、笙、觱篥(ひちりき)の類がある。末寺は3ヶ寺ある。

不動寺  南海山 真言宗古義京仁和寺末
荒光の北、村の端にある。

小堂3宇
 毘沙門堂 荒光の中にある。
 地蔵堂 境内周12間、下の中にある。村民が踊りをなす場とする。ゆえに踊堂ともいう。
 岩屋観音堂 境内周2町半、高山寺に属す。惑在の中の山の上にある。巌の洞は深さ2間、幅4間、高さ2間ばかり。東に向かって開く。堂がその中にある。このような奇状をなしている。

和歌山県田辺市稲成町

読み方:わかやまけん たなべし いなりちょう

郵便番号:〒646-0051

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牟婁郡:紀伊続風土記