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東敷屋村:紀伊続風土記(現代語訳)


東敷屋村 ひがししきや

西敷屋村と川を隔てて相対す。未の方(※南西微南※)にある四村荘小津荷村までの距離は30町余り。

長昌寺  薬王山 禅宗臨済派由良海部郡興国寺末。村の中にある。

石塔
長昌寺の庭中にある。碑面に南光殿古鑑厳心大居士十月朔日とある。年号はない。敷屋重一郎兼種の石塔と言い伝える(妙見社大永の棟札に兼種というのがある。同じ人であろう)。重一郎の先祖は日高郡道成寺創造のとき奉行であったが事件に連座して浪人となり、当村に来て数代居住する。

考えてみると、道成寺は紀道成の建立ゆえ、その名をもって寺号とすると言い伝える。いま当村の敷屋氏が紀姓でかつ道成寺のことを伝えるときは、双方伝えるところ古伝で、その実を得られるだろう(※?※)

鎌倉時代、千葉大輔胤成という者は頼朝のために誅せられる。その子は浪士となり熊野に来る。敷屋氏は子がなかったので養ってその家を譲った。慶長年中に家が衰え田畑山林を売り払い、大和十津川小山手村に引き移り、子孫は今なお小山手村にいるという。

『寛文雑記』に「敷屋殿屋敷敷屋村にあり」とある。西敷屋村妙見社の棟札に司喜屋総領紀兼吉というのがあり、天正の棟札に司喜屋総領紀兼文というのがあるり、また宝徳の棟札に兼好というのがあり、本宮竹坊の古文書に敷屋次兵衛尉兼政というのがある。みな敷屋氏の祖先であろう。

また海部郡浜仲荘西福寺の文書に公安元年敷屋荘司兼能が水田を寄進したことが記されている。これは敷屋氏の名が文書に見える始めである。敷屋村はいにしえ本宮の神領なので敷屋荘司・司喜屋総領というのは鷹山検校などと同じく神戸の長であったのだろう。

和歌山県新宮市熊野川町東敷屋

読み方:わかやまけん しんぐうし くまのがわちょう ひがししきや

郵便番号:〒647-1221

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牟婁郡:紀伊続風土記