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阿田和村:紀伊続風土記(現代語訳)


阿田和村 あたわ

四箇荘井田村の子丑の方(※北微東※)1里余にある。往還の駅である。南は井田村、北は下市木村との間にあって松の列が相連なり、村居は海に面して街道から谷内へ続き、阿田和川の両岸にある。村の坤(※西南※)、川上23町に小名屋敷谷というのがある。

阿田和の名は元亨元年の文書及び新宮の古文書に見えるがその意味は詳らかでない。いま元亨の文書によって考えると、古は阿田和村・中立村柿原引作村の4ヶ村を阿田和荘とした。また慶長旧記(大野荘鮒田村の赤木氏の蔵)に昔、村中に塩田荘司行義という人がいて、当荘を領したが、天正年間に隣郷の守護と相論じて合戦に及び敗れて鮒田村に逃げるという。考えるに、行義は元亨の文書に行慶とある人の後裔で、数世阿田和荘を領したのであろう。

産土神2社  境内周102間
 春日明神社・八幡宮(表行6尺3寸)  拝殿
村の端、山手にある。1村の産土神である。

小祠1社

光明寺  遍照山 禅宗曹洞派奥有馬村安楽寺末、村中にある。

阿田和川
源は村の乾(※北西※)尾呂志荘上野村領の奥山から流れ出て当荘中立村を経て村中にて海に入る。川の長さは3里20町、川幅は18間ばかり。村中に往還の渡し舟がある。

夷島
村の巳の方(※南南東※)、海上にある。陸地から30間ばかりを隔てている。周29間余の大巌である。

萩打平
村の北6町ばかりに平らな岡がある。東西9町余、南北4町余にある。新宮堀内氏が有馬孫三郎を攻めようとして市木村金剛寺まで押し寄せる、有馬方の大将九鬼中務・有馬伊賀守の両人が市木村に出城を構えここにて合戦があった、と伝えていう。

一升栗
尾呂志荘から新宮に到る街道の側田地の字にある。昔、北山郷神上村より新宮へ栗1斗2升を献じたとき、使者が私にここに1升を埋め置いて帰路に掘り出そうとしたが、その実がすべて生え立っていた。ゆえにこの名が起こったという。

産物百茸(ひゃくたけ)
色は黄色で、草野に生える。藍茸の類で食用とする。

三重県南牟婁郡御浜町阿田和

読み方:みえけん みなみむろぐん みはまちょう あたわ

郵便番号:〒519-5204

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牟婁郡:紀伊続風土記