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安居村:紀伊続風土記(現代語訳)


安居村 あご

 田畑高 287石9斗5合1勺
 家数  88軒
 人数  387人

口谷村の艮(※東北※)22町にある。大辺路往還である。土地はやや広い。村名は慶長検地帳には安子と書いてある。名前の意味を考えると、古は伽藍の近所には必ず安居別所などの地がある。今、当村の北に寺山村があり、その東には神宮寺村がある。そうであるならば当村は神宮寺村などの安居の地であったのだろう。

教子明神社  境内森山周116間
村の中にある。1村の産土神である。祀る神は詳らかでない。末社が3社ある。2社は宮の上の山にある。

大梵天王森  境内周80間
村の中にある。産土神である。

大円寺  医王山 禅宗臨済派京妙心寺末
村の中にある。本堂(方7間)、僧坊がある。

安居村暗渠碑
この村は従来旱損の地であったが、邑長の鈴木七右衛門という者が工夫を使って、村の北の寺山村とその北の向平村との間に岡山が差し出ていて川を隔ててるのを考えて、その中間の山を掘り抜いて暗渠を作ってから、寺山村・安居村の2ヶ村は灌漑の利を得て田畑は肥□となった。暗渠は村の北20余町にあるが、碑を兹地に建てそのことを書す。碑文を読めば、その詳らかなことを知ることができる。(※略※)

地士2人     鈴木七右衛門
家系は名草郡藤白浦の鈴木三郎の庶流で、代々当村に住む。永禄の頃、村中が洪水で旧記の類はみな流失した(洪水の時、家族が山上に逃れたが文書の類を家に取り残したのを惜しみ、立ち帰って舟で探し求めようとしたが海上に押し流され、かろうじて命を全うすることを得たという)。

今の七右衛門の父、七右衛門重秋という者は寛政10年に安居の暗渠の掘抜きのことを願って同11年未年より文化2丑年まで7年で掘抜きを成就した。これのため家の財産を投げ打ち身命を尽くして成功を得た。そのことは詳らかに暗渠の碑文に載っている。官はこれを褒して、命じて地士とする。その子七右衛門は今また現に地士である。

          並木淳蔵

和歌山県西牟婁郡白浜町安居

読み方:わかやまけん にしむろぐん しらはまちょう あご

郵便番号:〒649-2532

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牟婁郡:紀伊続風土記